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CASE-2:「自由意志は存在するか」下條信輔

9月11日木曜 午後3時30分ー5時
Case Worker : 高橋悟(京都市立芸術大学美術学部教授)

証人:下條信輔
カリフォルニア工科大学生物学部 教授 1955年東京生まれ。マサチューセッツ工科大学大学院修了、同Ph.Dl。東京大学人文科学科大学院博士課程修了。現カリフォルニア工科大学教授。専門は知覚心理学、視覚科学、認知神経科学。著作は『サブリミナル・マインド』(中公新書)、『<意識>とは何だろうか』(講談社現代新書)、『サブリミナル・インパクト』(ちくま新書)など。サントリー学芸賞受賞。日本神経科学会より時実記念賞、日本認知科学会より独創賞、中山賞大賞受賞。
陪審員:
渡邊克巳(東京大学先端研究所准教授)、柏野牧夫( NTTコミュニケーション基礎科学研究所人間情報部長)、渡邊淳司 (NTTコミュニケーション 科学基礎研究所感覚表現研究)、戸田郁夫 (TBSテレビ 情報制作局)、最相葉月 (ノンフィション作家)、松田哲也 (玉川大学脳科学研究所 大学院脳科学研究科准教授)、米田尚輝 (国立新美術館学芸員)、砂山太一(京都市立芸術大学総合芸術学科特任講師)、タナカノリユキ(クリエイティブディレクター)、木村絵里子(横浜美術館学芸員)、岡部あおみ(美学者・キューレーター)、栗原真由子(株式会社有斐閣)(順不同)

陪審員・傍聴人に配布された資料

進行・スクリプト:高橋悟

それでは、横浜トライアル CASE2「自由意志は存在するか」を開催します。
8月6日CASE1「非人称の光」では、「個別と集団」の関係について、第三項として「非人称」と「想像の共同体」をキーワードに考察することで、本年度の横浜トリエンナーレへの問いかけとしました。

今回のCASE−2では、カリフォルニア工科大学の下條信輔教授を御迎えしています。下條氏は、「サブリミナル・マインド」、「サブリミナル・インパクト」、「サバイバル・マインド」などの著書において、潜在認知・情動・暗黙知などをキーワードに、コミュニケーション論、人間論さらには、文明批評論へと展開されてきました。 今回は、「個別」と「集団」の関係について考察する時の基礎となる「自由」「意志」に関連する諸問題について、神経科学・心理学の立場から証言していただく事になるかと思います。

「テニスコートの誓い」
図−1「テニスコートの誓い」ジャン・ルイ・ダビッド 
図−2CASE BY CASE  BY Shing02 「日本国憲法をラップする」

図1は、ジャンルイ・ダビッド作の「テニスコートの誓い」と題された作品です。世界史の教科書などで、フランス革命のページに良く出てくるものですが、議会から閉め出された第三身分と呼ばれた人たちが、ヴェルサイユ宮殿の中にある球技場に集まり、新たな憲法が制定されるまでは、解散しないことを誓いあった事件を扱ったものです。

「平等・自由・博愛」

図3をご覧ください。「平等・自由・博愛」、これもまた、歴史の教科書に必ず出てくる言葉ですが、それと対をなす形で、「法・資本・国民」というグループと「悟性・感性・想像力」というグループが上げられています。この3つのグループを対応させる方法は、柄谷公人氏の「世界共和国へ」(岩波新書)に従っています。個人の自由・欲望・私有財産の無制限な拡大に対して、公的平等・道徳・社会契約は、それらを抑制し制御します。ここから、「自由・感性・資本」と「平等・悟性・法」は、異なる方向性を持っており、相容れないものであることが解ります。そして、この「自由・感性・資本」と「平等・悟性・法」という矛盾した概念を「結びつける役割」として機能するものに「友愛・国民・想像力」があてられています。柄谷氏の考察は、ここから、交換経済やカント哲学の検証を通じて、新たな共同体概念の構築に進んでゆきます。しかし、今回は、その為には自ら進んで死を選ぶことも可能とする「我々」という一つに結びついた共同体が、「第三の審級」として想定される事で、個人の自由とは相容れない共同体の法が可能になるという点を確認し、「自由意志は存在するか」という問いへの前提としたいと思います。

図−3
「二つの9・11」

図−4をご覧下さい。この建物は、今から40年以上前に、社会主義政権下にあったチリで、南米最大級規模で高度な医療福祉を無償で提供する事を目的として着工されたオチャガビア病院です。1973年9月11日、米国CIAの支援で引き起こされた軍事クーデターで成立した独裁政権により、この病院建築は完成しませんでした。そして軍事政権のもとでは、医療福祉の供給ではなく、仮設の監禁、取り調べ、拷問の場へと変えられました。1988年の国民投票による民主化以降も、この建物は、「未完の記憶・ヘテロトピア」として、サンチアゴの都市の中に残っていました。その姿を、NYウォール街のグランド・ゼロへと重ね合わせることで、何が見えてくるでしょうか。


図−4 オチャガビア病院 (サンチアゴ・チリ )
「病院・監獄・工場・学校・軍隊」
図−5

図5は、「最大多数個人の為の最大幸福」を唱えたジェレミ・ベンサムによる監獄の設計図で、「一望監視装置」という名称で知られています。建物の中心にある塔の内部から監視する者は、個別の牢獄に入れられた囚人側からは、視られることなく、囚人全員の身体・動き視ることを可能にしています。ここでは、実際に監視者が見ているかどうかよりも、「誰かに視られている」という意識 が重要となります。誰かが見ているという意識を「監視されているもの」の心に内在化させる事で、個人の身体の動きを制御することが、この装置により可能となるのです。そして、この装置は、監獄だけでなく、学校、軍隊、工場、病院など、多様な場へと展開してゆきました。

図−6 国民ラジオ体操 
       
図−7 1936年ベルリンオリンピック

このような装置は、社会契約に基づいて、個人の自由・感性を集団・国家の理性によって統治する「法」の権力—Powerとはことなる、「規律・訓育型」の権力—Forceと考えられています。Force型の権力は、王などの権力者が他者を抑圧するというイメージ「所有」する力ではなく、作用し、作用され、反作用する力の運動です。例えば、株の値段は刻々と変化しています。投資家や、政府機関の介入などがあるものの、株の動きそのものに着目するなら、個人の欲望や身体を貫通することで、消費や生産を促したり・制御したりする作用だけがあるということになります。また、サッカーのゲームなどにおいて、個々のプレーヤーは、他のプレーヤーの動きを絶えず観察しながら、自己の動きを制御してゆきます。個々のプレーヤーの運動、ボールの運動、これら複数のForceが作用する分散型のシステムから試合が作り出されています。ここには、ゲームの作者も、所有者もいません。Forceは「競技・戦術」型の権力といえるかもしれません。

「ぼくが飛び跳ねる理由」
 
図−8 感覚統合ルーム
 

図8をご覧ください。これは、「感覚統合ルーム」と呼ばれるプレー・ルームです。健常者とは異なる知覚・感覚・認識をすると考えられている高機能発達障害、いわゆる自閉症と呼ばれる児童を対象としたものです。自閉症児は、視覚・聴覚・身体感覚など複数の感覚を調整して一つの動作へと統合する事が苦手であると言われていますが、「感覚統合ルーム」では、バラバラに分散した感覚を調整してコントロールする訓練がなされます。「自閉症の僕が飛び跳ねる理由」という著作で、世界的に知られるようになった東山直樹さんは、このバラバラに分散した感覚について述べています。例えば、時間の感覚ですが、健常者のように、過去・現在・未来が一つの線の上の流れとして前後関係を持つのではなく夜空の星々のように、平面の上に散らばった状態で、現れてくることを述べています。部分と全体のとらえ方、自由・規則、自己という感覚、それらを統合する意志という概念についても、現代の健常者とは、かなり異なったとらえ方をされていうようです。「健常という病」に冒された「人間」が、築き上げてきた「資本・国家・法」について、「非健常」というカテゴリーに選別された者達の「悟性・感性・想像力」を重ね合わせてみることで、従来とは異なった「平等・自由・友愛」のイメージが、浮かんでくるかもしれません。


証人:下條信輔の資料

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陪審員コメント01

陪審員:最相葉月(ノンフィクションライター)

自由意志は奪われないという下條信輔氏の証言を支持いたします。
とくに下條氏が挙げた3つの理由のうちの1つ、ポストディクション(後付け再構成)について、インタビューを生業とする私のつたない経験からも非常に共感を覚える点がありました。
ポストディクションとは人間の快楽と関係があるのではないでしょうか。

下條氏はアスリートの研究が紹介されましたが、ここではカウンセリングを例に挙げます。カウンセリングの場においてセラピストはクライエントの語りをひたすら聞きます。それが正しかろうが間違っていようが、無意識であろうが意図的であろうが、語られるままに耳を傾け異論をはさむことも指示することもありません。

その時間の中でクライエントは記憶を呼び起こしますが、それは巻き戻した時間をそのまま取り戻すことではありません。たとえば、自分がこんなことになったのは、あの時、母親がこういったからだ、といった理由付けを行います。セラピストに母親との関係について問われたからそう答えたわけですが、自分の語りとなった途端、自分は前からそう考えていたと後付けで思うようになります。因果を結ぶことはクライエントを癒し、落ち着きを与えます。暗い部屋で這いつくばって探していたソケットがようやく見つかり、コンセントを差し込むことができた時のような爽快感を覚えます。仮の物語であってもそれがクライエントの快楽につながるのであればそれでいいのです。生きていくために役立つのですから。

しかしここでセラピストはクライエントに働きかけます。私たちが言葉の世界に生きている限り、因果を結ぶことからは逃れられない。しかしそれでは真の回復にはつながらないと揺さぶります。物語は人を自由にも不自由にもするからです。クライエントを自由にしたはずの物語が今度はクライエントを不自由にします。カウンセリングはこのような自由と不自由の繰り返しです。通常のインタビューにおいても同様のことは頻繁に発生します。

研究では連続した実験系を組み立てるのがむずかしいかもしれませんが、自由意志とは日常的に因果を結び、引き離し、再び結び、引き離し、の連続体ではないでしょうか。「蒸発」の危機とその克服を繰り返すことこそ自由意志ではないかという考えです。自由・不自由を往還する限りは自由意志は奪われない。ただし、そこに不可欠なのは他者の存在です。

今回はトライアルの前提となる高橋悟氏の投げかけたキーワードと下條氏の語りとの関連を考えることで頭がいっぱいになってしまい、上記の感想は文脈が異なる断片的な感想かもしれません。どうぞご容赦ください。


陪審員コメント02
横浜トライアル Case2 「自由意志は存在するか?」へのコメント
~テレビ制作者の立場から~

陪審員:戸田郁夫(TBSテレビ情報制作局プロデューサー)

テーマ「自由意志は存在するのか?」について

もしもテレビ番組ならば、このテーマは「自由意志は存在しないのか?」に変わります。
マスコミは、「自由意志は存在する」ことを前提として、受け手とのコミュニケーションを行っています。自由意志が存在するからこそ、世論調査も民主主義も平等な社会も成立する、と考えます。「自由意志」は、テレビや新聞が標榜する「正義」や「人権」の前提でもあります。「自由意志」を束縛しようとする国家権力を、マスコミは大いに叩きます。また、「マス」の世界では、人は論理的に物事を判断し、行動することを前提にしていますから、「自由意志は存在するに決まっている」ことになります。

さらに、「自由意志が蒸発しない3つの理由」という話の展開は、「自由意志が蒸発するかもしれない」ことを前提としており、偏差値が高すぎて無理があります。「マスコミ」の世界では、逆に、「自由意志が蒸発してしまう危険とは?」という展開に変わることになります。マスコミは建前を大切にするので、そうなるのです。

しかしその一方で、「マスの受け手」は、本音としては、「自由意志」への不安を抱いています。「送り手」側の研究も進んでおり、コマーシャルや選挙運動などは「イメージ操作」のテクニックの宝庫でもあります。広告会社もメーカーも、政党も、購買行動や投票行動を潜在的に操作することを知っています。テレビの世界でしばしば問題になるのは、「サブリミナル手法」や「やらせ」など、潜在的に脳を操作しようとする「汚いやり口」です。これが明らかになると、視聴者は大層怒ります。投票行動はイメージに左右されるので、政党によるテレビ報道へのチェック体制も、数年前からエスカレートしています。薄々コントロールしたりされたりすることへの不安を、皆、ホンネでは抱えているのだと思います。

これらのホンネとタテマエのかい離に直面しながら、多くのテレビ制作者が番組を制作し、放送しています。ここでタテマエを大切にして放送するのが、テレビの努めです。「公正」や「真実」というタテマエは、マスコミの生命線と言っても良いでしょう。ただし、放送局の中でも、報道局員は建前に従い、制作局員はイメージ操作のテクニックに長けているのが、ちょっとした違いとして、存在しますが。

なお、陪審員の議論にあった通り、「自由意志」を「主体性の感覚」と置き換えると、話は分かりやすくなります。「自由意志は存在するのか?」は、挑戦的なタイトルすぎます。テレビの世界でも、視聴者の「主体性の感覚」と考えたほうが、議論がしやすいのです。

神経学的還元論について

脳神経科学の成果からの問題提起です。意思決定よりも運動野の神経活動が先立つのであれば、市民社会の倫理は雲散霧消するのでは?という問題提起は、良く考えると、大変面白いです。

マスコミの前提は「理性」ですが、これを一旦疑い始めると、「民主主義が幸せにつながるのか?」という疑問も生じてしまいます。実は「幸せ」につながってない場合も多いのですが、自分たちが投票で決めたことによって引き起こされた不幸なら、あきらめがつきます。民主主義の意義はそこにあるのかもしれません。仮に「自由意志」が蒸発していたとしても、投票したという事実は動かず、納得するしかないのです。

脳科学や心理学のこの研究成果は、多くの人々に届いていないので、現実社会で問題になることはあまりありません。私は、個人的には、多くの人々は「理性」を過信していると思います。だから、もう少し脳の「無意識」な働きに注目させるテレビ番組を作りたいのです。

「自由意志」が蒸発しない3つの理由について

あと付け再構成、知覚イリュージョンの話は大変興味深く、来年2月放送予定のスペシャル番組「生命38億年スぺシャル 最新脳科学ミステリー“人間とは何だ…!?”」に取り入れられないか、考えています。主体性の感覚は一種の知覚イリュージョンだとしても、それが脳の誤作動ではなく、正常な適応的機能を反映したものと考えれば、「人間とはそういうもの」と言えるのでしょう。テレビ表現としては、そのあたりだと思います。

知の不透明性について

ここは最もテレビ制作者にとってなじみ深い話でした。視点の違いとは、映画で例えれば、「タイタニック」のように観衆が悲劇の結末を知っていて俯瞰して予想通りになるタイプのものと、「アナと雪の女王」のように「ディズニーだからこうなるだろう」との予想が裏切られるタイプのものがあり、観衆はそれぞれを受け入れ、楽しんでいます。どんな視点でも、観衆は柔軟についてくる。ドラマでは観衆に自覚させないように恐怖を煽ったり、ドキュメンタリー番組でも理性的な情報の中に喜怒哀楽のスパイスを込めたりします。優秀なテレビ制作者は、それをよく理解しており、「本当」のことをドラマチックに楽しませて見せるテクニックを持っています。ダメな制作者は下手な嘘をついて「やらせ」と罵られます。この違いは、視聴者の「自由意志」(それが幻想であるにせよ)を尊重する姿勢の違いともいえるでしょう。受け手の「主体性の感覚」を尊重することが、マスコミュニケーションの基本なのかもしれないなと、この話を聞いていて思いました。

陪審員の議論の中で

最も興味があったのは、社会脳。集団と個の関係の議論でした。
何故、ヒトラーは大衆を熱狂に導き、破滅へと駆り立てていけたのか?Eフロム「自由からの逃走」から始まる社会心理学からのアプローチは多数存在しますが、脳科学のデータが十分でないことは、残念です。マスコミを志す者は、多少なりとも、大衆というものをどのようにとらえるのか?科学的なアプローチに興味があるはずです。社会がダイナミックに動く時、脳に何が起きているのか?

私は、下條先生の「脳と脳の間のダイナミックな結合」の話に深く共感し、来年2月放送予定の「生命38億年スペシャル 最新脳科学ミステリー“人間とは何だ…!?”」にご協力を依頼しました。潜在的な「脳と脳の同期」の解明を進めていくと、集団の潜在脳が見えてくる日が来るかもしれません。ビッグデータの活用が社会脳の解明につながるものなのか?興味は尽きません。

 


陪審員コメント03
ヨコハマトリエンナーレ
9月11日Temporary Foundation「横浜トライアル」Case-2

陪審員:栗原真由子(株式会社 有斐閣)

1・自由意志をつかまえられるか

学術専門出版社で雑誌広告等宣伝を担当しています。「横浜トライアル」は心理学を主に担当する編集者に案内が届き、その代理として参加しました。弁護人役と検察官役がそれぞれの主張を訴える模擬裁判を想像して会場に向かいましたが、今回の「証言」は、「やはり自由意志は存在する」という結論にたどりつく「講義」でした。もちろん実際の講義なら、その途中で質疑応答が入り、今回の「証言」とはもちろん別な形になるでしょう。

「自由意志」に関する命題は、哲学・刑法学など多くの学問分野で議論されていますが、その存在を前提にしての議論にふれることの方が多いため、今回の「証言」で触れられる内容は大変刺激的でした(法律系の書籍を刊行している出版社に勤めているため、つい「自由意思」と変換しがち)。脳のある部位の反応速度・神経対応を重視する神経科学の視点から「自由意志などない」という議論も可能であっても、やはり賛成できません。外部からの刺激に影響を受けやすい身体内で起きる「自由意志」は一種の詩のようで、固執であってもなお一層、このたよりない詩を手放すことはできないように思えました。

「自由意志の存在は自明」と思っているときには何の不安もないのに、一度その存在を疑い始めると、際限のない議論が続く、自由意志。つかんだように思ったそばから、意味が離れていく、まさに逃げていく自由意志について考える、充実した時間を思い返しながら、感想を続けます。

2・影響を受けやすい陪審員

「証言」で紹介されていた、特に印象に残っている実験は次のようなものです。

1.被験者に異性の写真を2枚見せ、どちらが魅力的かを尋ね、またその理由を聞く。

2.再度、被験者に①と同様に異性の写真を2枚見せる。被験者が魅力的だと挙げた方ではない写真を、「あなたが魅力的だと挙げた人物」として、その反応を見る。

実験結果としては、多くの人が②で「その写真は私が選んだものではない」と答えるものの、一定割合の人は、「当初自分が魅力的だと思っていなかった人物」を「魅力的に感じた」と受け入れ、違う人物であるにもかかわらず、その人物を魅力的に感じた理由として①と同様に答えるというものでした(この実験の手法は映画「ソーシャル・ネットワーク」での冒頭で主人公が開発したシステムを思い出させる)。

自由意志に従って選択している(と信じている)選択・理由のたよりない一面を示す実験で、被験者の個性を含んでも、さもありなんとも頷く反応が、「傍聴席」にも見られたように記憶しています。「自由意志はポストディクティブな(後付け再構成される)もの」と、たよりなさを認識した上で、「それでも自由意志が存在する」と主張するのは、信仰に近いものかもしれません。しかし、やはりこの教義によりたい自分自身を、影響を受けやすい陪審員として、再認識しました。ただ、選択の幅の広さ・狭さを認識していなければ、「自由意志」とは認めにくい以上、この実験のみで「自由意志」を片付けられないのはもちろんです。

3・「証言」前のヨコハマトリエンナーレ鑑賞の影響―空額の中の美女

当日の「陪審員」として、ヨコハマトリエンナーレの展示を一通り見てから臨みました。すべての映像作品等を通して見る時間がありませんでしたが、「忘却」をテーマにした作品の一群は見応えがありました(できれば会期中にあと一度は訪ねたい)。

今回の「証言」を聞きながら特に思い出したのは、新港ピア会場でのメルヴィン・モティ「No Show」です。第二次世界大戦の戦火を避けて作品が疎開している間、全く展示作品がないエルミタージュ美術館を案内した学芸員の話を素材に、その「空額ツアー」を追体験するような作品です。「この絵には美しい女性が描かれています。とても美しい女性です」と、そこにはない絵を「見る」方が、実際の絵を前にするよりも、人気のあるツアーだったというエピソード自体も魅力的です。人間の想像力の不思議さを、自由意志の話から連想しました。同じ絵を見ても、全く感想が違うのが人間というものですが、空額を眺める誰もが「美しい」と感じるのもまた人間。

「証言」では、「『選考』にはばらつきがあり、『美』は普遍的」とは必ずしもいえないという話が登場しました。「美」は所属集団の多様性を表すものという説明はしっくりきますが、どの人にとっても「美」という概念はあるという期待のもと、「空額ツアー」は全ての人に美しい絵を提示していたのかもしれません。

4・「証言」後のディスカッション
 

美術作品を鑑賞する際に、学芸員と、特に美術教育を受けていない一般観衆との見方の違いについての話題が挙がりました。「作家の、その作品の制作過程での心情に寄り添うように見ること」が鑑賞方法のすべてではありませんが、「正解」と認識されやすいものです。

しかし、一般観衆の方が、その作品の時代的背景などの知識を持った学芸員より作品を楽しめる場合もあります。全ての学芸員が同じような解釈で企画展を開くことがないように、個体差の方が大きいのは当然です。ただ、すべて個性の問題にして、議論を終えることは拙速に感じるし、そもそも作家の制作過程の心情などわかりえないのではないか(おそらく作家自身さえも)。類型化に完全に陥ることなく個体差を受け入れるか、そして、それぞれにおもしろく見るしかない、と一鑑賞者としては思います(ある程度の知識があった方がより楽しめる場合はもちろん多いですが…)。

また、「ある刺激を受けた状態では、一定の行動をとらざるをえない」という状況の快・不快の感覚について、選択の幅と強度のずれ(「選択肢が多い方が自由」という判断と、最善の一択である「sense of agency」)、アスリートとアーティストの反射神経の共通点など、興味深い話が続くディスカッションでした。

5・再び、影響を受けやすい陪審員

自由意志についての「証言」を考えれば考えるほど、自由意志というものがわからない……でもあると思うし、そう信じたい…そう信じたい自分……と、ますますぼんやりした感想になってしまいます。ぼんやりとした認識を自覚するところから始まる心理学のおもしろさを垣間見られたようにも思います。

有斐閣のPR誌「書斎の窓」での連載・大平英樹「脳の中の不思議の島」では、「ときめき」に伴う脳の働きを示しています。「ときめき」と呼ばれる脳の反応と「自由意志」とはどのような関係にあるのか……ぼんやりとした感想のままですが、以上で、「横浜トライアル」についてのコメントとさせていただきます。

なお書斎の窓Web版で本文をすべて公開しています。ぜひお時間があればご覧ください。
http://www.yuhikaku.co.jp/shosai

(2014年9月30日 栗原真由子)


陪審員コメント04

陪審員:砂山太一(京都市立芸術大学美術学部総合芸術学科特任講師)

近年の表現分野では、インタラクションやインターフェースデザインなどの言葉に代表されるように、それを提供・享受する「人」の認知を媒体とした表現が多く見られる。またこのようなある意味メタ・オブジェクトレベルのみならず、その対象はコミュニティやソーシャルというような、近代的な自我の意識から、よりリゾーム的に、表現・文化の問題を間主観的な創発の問題として捉えるような拡がりの幅を見せている。
高橋悟氏から投げかけられた現在における「個人」と「集合」の問題から導きだされた「自由意志は存在するか」という問に対する下條信輔氏の審議では、「集合」的知性を司る最小単位としての「個」の知性を、神経学的観点からその主体的な振る舞いの現れとして審議されていた。
現代の芸術表現の読み解き方として、認識による事物に対するイメージや意味からくる文脈的解釈や、一方で我々の認識的主観に依存しない「物」自体に価値を見出す超越論的観点による芸術解釈があるが、それらはいずれも認識対象の絶対的な存在を前提としている。
下條氏の審議の中で提示された多くの神経学的事例は、人の認識それ自体の有り様を示すものであった。それらはある意味、認識の知覚内容そのものの中に自由意志つまりは主体性の所在を見つけ出そうとする試みであると解釈でき、存在に依存しない「認識」自体というような新たな芸術表現の可能性を示唆する試みとして読み解きたい。


陪審員コメント05

陪審員:渡邊淳司(NTTコミュニケーション科学基礎研究所)

私たちの普段の生活において、行動が純粋に自分の意志に基づいたものなのか、それとも意志とは関係なく外部にやらされたものなのか、区別することはできない。たとえば、何か買い物をするにしても、前の晩に見たテレビの情報であったり、ふと目に入った広告からの情報であったりと、自分の意志決定には常に外部からの情報が関与している。しかし、内部観察者の視点(ある人の心的な視点)から「自分の意志によって何かが起こった」と感じること、環境の出来事と自己をつなぐ「心の作用もしくはその状態」を自由意志と考えるならば(*リベットの実験も参照)、自由意志は人間の心に必要不可欠なものとして存在する。そして、個々の人間の心的現象として存在する自由意志は、自身の行動を含め、事物をその基準から判断する。

私たちは、自分の心臓を思った通りに動かすことができない。しかし、自由意志を設定しないものに対して不自由を感じることはない。しかし、意志を持つことが可能な「手を動かす」という行為に対しては、もし、思った通りに動かないとすると、そこに不自由を感じる。そして、意志に反するものは、何らかの「問題」があるとみなされる。

 

次に、この考え方を社会における自由意志に適用してみたいと思う。ここでいう社会とは、単に人間個体の集合を指すのではなく、個体が社会に対して切り離すことのできない何かとして機能し、ある個体の行動が何らかのルールに基づいて、その個体もしくは別の個体の行動を生み出す一つのシステムとして機能している総体を社会とする。このとき、ある人の心的な視点と同様に、ある社会としての内部観察者を仮定すると、社会を構成する個体それぞれは自由意志を持って行動していたとしても、社会の内部観察者の視点からそれらは観察不可能である(心にとっての身体のように)。そして、社会で生じる個々の事象と社会としての主体をつなぎ、それをもとに評価を行う作用を「社会の自由意志」と考えるならば、個人の自由意志と、社会(「我々」)の自由意志は矛盾せずに存在しうるものである。

そして、社会の内部観察者の視点において、不自由を感じたものがあったとすると、その問題は「責任」という言葉によって言い換えられるかもしれない。


陪審員のコメントを随時、公開予定です。